現代ロードレース界において、彼ほど「バグっている」選手はいない。「ダランゴの鷲」ことセップ・クス(Sepp Kuss)。彼は本来、エースを勝たせるための「山岳アシスト(スーパードメスティック)」である。しかし、超級山岳でライバルたちを地獄のペースで引きずり回しているうちに、気がつけば自分自身がグランドツアーの頂点に立ってしまったという、極めて稀有な突然変異体だ。

1. 基本データ:解剖学の標本レベルの超軽量ボディ

まずは彼の身体組成を見てほしい。プロロードレーサーの体型はシーズンごとに微細に変わるが、彼のデータはどれを見ても一種のホラーである。

データソース 身長 (cm) 体重 (kg) 算出BMI フィジカル特性の解釈
公式ウェブサイト等 182.0 61.0 18.41 最も一般的なプロファイル。高身長かつ超軽量のクライマー体型。
一部のUCI登録・競技DB 180.0 61.0 18.83 登録時期による微差。それでも18台後半。
Strava公開初期データ 180.0 59.0 18.21 ツール等の過酷な連戦で極限まで絞り込まれた状態の推定値。
本人言及による実測値 182.0 60.0〜61.0 18.11〜18.41 シーズン中の実質的な安定体重。

BMIは驚異の18.1〜18.8。一般の健康診断なら「低体重(痩せ)」で即指導が入るレベルだが、山岳スペシャリストとしては、上半身の余分な筋肉や脂肪を完全に削ぎ落とした「理想の骨格バランス」だ。医学部の解剖学の講義で骨格標本として展示されても違和感がないほどの絞り込みである。

アシストなのに3大ツール全制覇(トリロジー)のバグ

クスはエースを牽引しながらも、チャンスがあれば容赦なくステージを獲る。

  • ツール・ド・フランス:1回(2021年 第15S)難関ピレネーでの独走勝利。
  • ブエルタ・ア・エスパーニャ:総合優勝(2023年)+ ステージ2回(2019年、2023年)。
  • ジロ・デ・イタリア:1回(2026年 第19S)超級山岳パッソ・ジャウを擁するクイーンステージでトリロジー完成。総合13位。

戦術的カオス:2023年ブエルタ総合優勝の舞台裏

2023年のブエルタ・ア・エスパーニャは、近代ロードレース史において最も「チーム内の人間模様がドロドロに絡み合った」ドラマだった。率直に言って、第3週のチームマネジメントは機能不全のカオス状態だったと言わざるを得ない。

第6ステージの逃げでタイムを稼いだクスは、第8ステージでマイヨ・ロホ(総合首位)を獲得。当初はダブルエース(ログリッチ、ヴィンゲゴー)のための「一時的なおとり」扱いだった。しかし、クスが強すぎて一向にジャージを手放さない。 焦ったエース陣が牙を剥いたのが第3週だ。第16ステージでヴィンゲゴーが無線確認のうえでアタックしてタイムを削り、第17ステージの超激坂「アルト・デ・ラングリル」では、なんとエース二人が首位のクスを置き去りにしてフィニッシュ。同じチームなのに「身内でアタック合戦」という前代未聞の事態が起きた。

クスは意地で17秒差を守り抜き、世論の猛反発もあってチームはようやく「セップを勝たせる」と意思統一。最終的にマドリードでクスが総合優勝を果たし、チームは表彰台を独占した。長年の献身への「お返し」と美談で語られがちだが、彼の真のフィジカル強度がエース陣をねじ伏せた歴史的瞬間である。

2023年ブエルタ、誰もが予想しなかった(?)真紅のジャージ「マイヨ・ロホ」に袖を通した瞬間

2026年ジロ・デ・イタリア、執念のクイーンステージ

2026年5月29日、第19ステージ。獲得標高差5,000m超、最高標高地点「チマ・コッピ(パッソ・ジャウ)」を含む155kmの地獄のレイアウト。総合首位のヴィンゲゴーから自由を与えられたクスは、終盤パッソ・ファルツァーレゴでジュリオ・チッコーネに1分以上の差をつけられる。 一度は諦めかけたクスだが、最後の登坂ピアーニ・ディ・ペッツェで猛追を開始。残り2kmでチッコーネを捕らえてぶち抜き、単独フィニッシュ。プロ史上116人目となる「3大ツール全ステージ優勝(トリロジー)」の偉業を達成した。

2026年ジロ第19S、過酷なクイーンステージを制し「トリロジー」を完遂した歴史的ガッツポーズ

2. スーパーアシスト:集団を崩壊させる「死のペース」

彼の本来の任務は「風よけ」ではない。超級山岳の最もエグい区間で、ライバルがアタックできない限界ギリギリの超高速ペーシング(6.2〜6.5 W/kg)を刻み続けることだ。 このペースで引かれると、ポガチャル級のバケモノでさえ無酸素領域に踏み込む余力が奪われる。そしてクスが仕事をおえて離脱する瞬間、後ろで脚を温存していたエースが「発射」される。まさに最凶のローンチパッドだ。

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レース・ステージ(対象山岳) 登坂時間 平均出力 (W/kg) 補正出力 (78kg換算) 意義
2020年 ドフィネ 第2S(コル・ド・ポルト) 43分00秒 5.7〜6.2 382〜430 W 長時間の難関登坂。世界屈指のクライマーたちを次々と脱落させた。
2022年 ツール 第7S(ラ・プランシュ) 19分42秒 6.63 461 W 急勾配フィニッシュで高い最大酸素摂取量を発揮。
2023年 ツール 第5S(マリー・ブランヌ) 16分50秒 6.70 466 W 短〜中時間の激坂で限界に近いペースを維持。
2025年 ツール 第18S(ペイラグード) 19分01秒 7.22 505 W 20分弱の登坂で驚異の7 W/kgオーバー。
2025年 ツール 第17S(オートカム) 35分07秒 6.59 460 W 30分超の超級山岳で一貫した高い出力を証明。

週末に愛車を引っ張り出して意気揚々とヒルクライムに挑む我々が、3分で息絶えるようなワット数(400W前後)を、彼は3週間の連戦の末、1ステージ内の複数の超級山岳で維持する。異常事態である。

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3. 運動生理学:二乗三乗の法則をハックした男

なぜこんなことができるのか?それは彼の骨格と、幼少期からの特殊なスポーツ歴が生み出した「生理学的適応」の賜物だ。

物理法則への反逆(パワーウェイトレシオと熱放散)

勾配が8%を超える超級山岳では、抵抗の90%以上が「重力」になる。物理学の「二乗三乗の法則」によれば、身長が高くなればなるほど体重(体積)は三乗で増えるため、重量あたりのパワー(W/kg)は不利になる。 しかし182cmのクスは、体重を61kgに固定することでこの法則をハックした。大柄な選手のメリットである「長い手足によるクランクへの高トルク伝達(高いレバー比)」を活かしつつ、純クライマーと同等の重力抵抗しか受けないのだ。

さらに、身長が高く極細の体型は、体重あたりの皮膚表面積(BSA/M比)がデカい。筋肉が発生させる熱を逃がす「ラジエーター」がめちゃくちゃ広いのだ。断熱材となる皮下脂肪もないため、ブエルタの35度を超える灼熱地獄でも熱疲労を回避できる。

クロカンとMTBが生んだハイブリッド心肺

元五輪コーチの父を持つ彼は、コロラド州ダランゴ(標高2,000m)という天然の高地トレーニングルームで育った。 全身を最大強度で使うクロスカントリースキーで心臓の左心室をバカデカく(心肥大)し、高地環境でエリスロポエチン(EPO)を自然分泌させて毛細血管網を極限まで発達させた。 さらに大学時代に打ち込んだMTB競技で、不整地をいなす強靭な体幹(腹横筋や多裂筋のアイソメトリック収縮)を獲得。ロードの登坂で骨盤が1ミリもブレないため、ペダリングのエネルギーロスがゼロなのだ。

そして極めつけは、長時間の山岳ライドで培われた「ファットアダプテーション」。遅筋線維のミトコンドリア密度が異常に高く、普通の選手が糖質(グリコーゲン)を使い果たすような高強度でも、彼は脂肪を燃やして走れる。だから連日のステージでも翌日に疲労を持ち越さないのである。

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4. メンタル:「良い奴」から「覇者」への覚醒

彼の最大の魅力は、どんなに苦しい山岳でもカメラに向かって見せる「穏やかな笑顔」だ。名声よりも「走る喜び」を愛し、2026年ジロのクイーンステージ優勝時には、残り500mで声援を送る母サビナへの感謝を口にするような家族思いのナイスガイである。 しかし、2023年のブエルタは、そんな「利他的な良い奴」に過酷な精神的葛藤を強いた。

「最初は、自分から『自分のために動いてくれ』と要求することに強い違和感があった。ジロやツールの勝者を前にして、大口を叩きたくはなかったんだ」

第16ステージで味方のヴィンゲゴーがアタックした時、彼はロードレース史上最も奇妙な心理状態に陥った。

「本当に奇妙なダイナミクスだった。ヨナスには勝ってほしいけれど、他のチームが引き戻してくれないと困る。ただ他チームが動いてくれるのを祈るだけだった」

第17ステージのラングリルでエース二人に置いていかれた瞬間、彼は一度すべてを諦観した。「ああ、自分のマイヨ・ロホはここで終わりだ。これが事前に合意したルールだから」と。 しかし、この理不尽なドラマが彼の中の何かを壊し、速度を上げさせた。「アシストは永遠にアシストであるべき」というロード界のクソみたいな固定観念に対し、彼はついに牙を剥いたのだ。

「『ヨナスやプリモシュが勝たせてくれたにすぎない』という議論があるのは知っている。しかし、ならば自分がこれまでに何度も彼らを山岳で引き倒し、過去のラングリルでプリモシュを救い出し、彼らの総合優勝をアシストした無数の瞬間はどうなるんだ?

もしロードレースが、一度アシストになれば何があってもアシストのままでいなければならないカースト制度だと言うなら、それとは逆に『一度リーダージャージを着た者が、何があってもそのチームの絶対的なリーダーであるべきだ』という論理も同等に成立しなければならないはずだ」

最終的にブエルタを制したクスは、こう言い放った。

「どのようにストーリーを紡ごうとも、チームという共通のルールの範囲内でプレイし、なおかつ誰がその瞬間に最も強いかを示さなければならない。あの状況において、私自身が最も強いレーサーであったと確信している」

ただの「心優しい名アシスト」から、己の実力で王座を主張する「本物の覇者」へ。この精神的変遷を経て手に入れた圧倒的な自己肯定感が、2026年ジロ・デ・イタリアでの電撃的な独走劇を生み出す燃料となっている。 セップ・クス、やっぱりこの男、最高にバグっていて、最高に面白い。