タデイ・ポガチャル。現代のプロサイクリング界において、彼のパフォーマンスは「異常」の一言に尽きます。
2024年から2025年にかけて彼がツール・ド・フランスの山岳ステージで叩き出したタイムは、かつての「クリス・フルーム時代」や「パンターニ時代」の記録を大幅に更新し、人類の生理学的限界値を再定義させました。
「彼は宇宙人だ」「魔法を使っている」
ファンはそう称賛しますが、医学生の視点から彼の走りを冷静に分析すると、そこにあるのは魔法ではありません。極めて「人間離れした生理学的効率」の正体が見えてきます。
本記事では、サイクリストのエンジンの指標である「VO2max(最大酸素摂取量)」をキーワードに、ポガチャルの心臓と筋肉の中で起きている現象を、ミトコンドリアと乳酸代謝の観点から徹底的に解剖します。
1. ポガチャルのVO2max:数値が示す「エンジンの巨大さ」
サイクリストの能力を測る上で、最も基本的かつ重要な指標がVO2max(最大酸素摂取量)です。これは「1分間に体重1kgあたり、どれだけの酸素を体内に取り込み、利用できるか」を示す数値で、いわばエンジンの排気量です。
一般成人男性の平均が約40 mL/kg/minであるのに対し、プロサイクリストは70〜80 mL/kg/minに達します。では、ポガチャルは一体どれほどの数値を叩き出しているのでしょうか。
| 選手名・カテゴリ | 推定 VO2max (mL/kg/min) | 出力特性 (W/kg) |
|---|---|---|
| T.ポガチャル | 89.4 – 96.0 | 6.7 – 7.0 (20-40min) |
| C.フルーム(全盛期) | 88.2 | 6.0 – 6.4 |
| G.レモン | 92.5 | N/A |
| 一般的なワールドツアー選手 | 75.0 – 85.0 | 5.5 – 6.0 |
| 一般成人男性 | 35.0 – 45.0 | 2.5 – 3.5 |
近年のレースデータ(2024年のプラトー・ド・ベイユ登坂:38分38秒、平均出力453W)から逆算すると、彼のVO2maxは最低でも89.4 mL/kg/min、条件が揃えば96 mL/kg/minに達すると推定されています。
これは歴代のチャンピオンたちと比較しても統計的な「外れ値」であり、現役選手の中では頭一つ抜けた数値です。しかし、ここで一つの疑問が浮かびます。「VO2maxが高い選手なら、過去にもいたのではないか?」と。
実は、歴史上最高のVO2max(97.5 mL/kg/min)を記録したオスカー・スヴェンセンという選手は、ツール・ド・フランスで勝つことはできませんでした。つまり、VO2maxは「参加資格」に過ぎず、勝敗を決めるのは「その酸素をどう使うか」という効率性なのです。
2. VO2maxだけではない:「持続力」と「回復力」の正体
ポガチャルを「史上最高(GOAT)」たらしめている真の要因は、VO2maxの絶対値そのものよりも、その最大値に近い強度で走り続けられる「代謝の特異性」にあります。
通常の選手であれば、VO2maxの限界付近で走れば数分でオールアウトします。しかしポガチャルは、疲労困憊のレース終盤でも20分間以上にわたり体重の7倍(7 W/kg)という出力を維持できます。
このカラクリを解く鍵が、「乳酸」です。
かつて乳酸は「疲労の原因物質」と考えられていましたが、現代のスポーツ生理学では「極めて優秀なエネルギー源」であることが証明されています。
高強度の運動中、速筋線維では大量の乳酸が生成されます。ポガチャルの体内では、この乳酸を運ぶ「MCTトランスポーター(運び屋)」が異常なほど発達しており、発生した乳酸を即座に遅筋や心筋、そしてミトコンドリア内へ送り込みます。
そして、送り込まれた乳酸は酸素を使ってATP(エネルギー)へと再合成されます。つまり彼にとって、アタックして乳酸が出ることは「疲労」ではなく「燃料補給」に近い現象なのです。
彼のコーチであるイニゴ・サン・ミラン博士のデータによれば、通常のプロ選手が乳酸を除去するのに20分かかるところを、ポガチャルはわずか2分で完了させるといいます。この驚異的な「乳酸クリアランス能力」こそが、彼が何度アタックしても復活できる理由です。
3. なぜ「ゾーン2(L2)」がVO2maxを支えるのか?
では、ポガチャルはどうやってこの「乳酸を食べる身体」を作り上げたのでしょうか?
その答えは、彼がトレーニングの80%を費やしているとされる「ゾーン2(低強度トレーニング)」にあります。
「世界最強の男が、なぜゆっくり走るのか?」
医学生の視点から解説すると、これは「ミトコンドリアの密度」と「脂質代謝」を極限まで高めるための、最も合理的かつ科学的なアプローチです。
医学的に見る「脚が売り切れる」メカニズム
人間の体内に蓄えられるエネルギー源は大きく分けて2つあります。
- 糖質(グリコーゲン): 爆発的なパワーが出るが、タンクが小さい(約2,000kcal)。枯渇するとハンガーノックになる。
- 脂質(脂肪): パワーは出しにくいが、タンクはほぼ無限大(数万kcal)。
一般的なサイクリストは、中強度(テンポ〜SST)で走るとすぐに糖質を使い始めてしまいます。しかし、徹底的なゾーン2トレーニングを積んだポガチャルは、ミトコンドリアの機能が最適化されており、「かなり高い強度(FTP付近)まで、脂質をメインに走れる」身体になっています。
脂質が盛んに燃えている間、細胞内では「今はまだ糖を使わなくていい」というシグナルが出ます(ランドル・サイクル)。
ポガチャルは、レースの9割を脂質エネルギーでこなし、貴重な糖質(グリコーゲン)を温存します。そして、勝負を決めるラスト10分の激坂で、温存しておいた糖質を一気に解放することで、他選手がタレていく中で一人だけ爆発的なアタックが可能になるのです。
つまり、「VO2maxが高いから強い」のではなく、「VO2maxを支えるミトコンドリアが脂質を燃やしてくれるから、最後までVO2maxの天井を叩ける」というのが医学的な正解です。
4. 結論:私たちへの処方箋
私たちはポガチャルと同じDNAを持っていません。VO2maxを90まで上げることは不可能でしょう。
しかし、彼の生理学的メカニズムから、我々ホビーライダーが学べることは山ほどあります。
週末のグループライドやZwiftレースで、毎回全力でもがいていませんか?
医学的に見れば、それは「糖質依存」のエンジンを作り、ミトコンドリアの成長を妨げる行為かもしれません。
「勇気を持ってゆっくり走る(ゾーン2)」こと。
地味で退屈なその時間が、あなたのミトコンドリアを育て、脂質代謝能力を高め、結果としてVO2maxの向上や「バテない身体」を作る最短ルートなのです。
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